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海眼寺と
かんのん堂の由来

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海眼寺の由来

 海眼寺は京都市内から北へ1時間半、福知山市の市街地にあります。海眼寺は由良川沿いにお寺が建ち並ぶ寺町筋の一画にありますが創建の詳細はまったく判然としません。江戸時代の初期、元禄年間の福知山城下を記した古地図には、現在とほぼ変わらない場所に海眼寺の名を確認することができます。
 海眼寺の由緒がなかなかはっきりしないのは、海眼寺そして福知山というまちが、由良川はん濫による被害をたびたび受けてきたからにほかなりません。福知山の市史とつき合わせると、おそらく海眼寺は創建以来十数回もの水害にみまわれています。残念ながらお寺の歴史を伝える寺宝や古文書のたぐいはことごとく流され、本堂やかんのん堂もそのたびに被害を受けました。

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かんのん堂の
由来

 海眼寺かんのん堂の由来は定かではありませんが、「丹波西国三十三ヶ所霊場」「天田郡三十三ヶ所霊場」といった霊場に名を連ねています。丹波西国三十三ヶ所霊場は江戸中期(1750年ごろ)までには成立していたと思われますので、かんのん堂もそのころまでには成立していたものと考えられます。かんのん堂に関する古い資料は水害などでほとんど残っていませんが、もっとも古い記述としてはかんのん堂前の石灯籠には寛政九(1797)年の記載があります。

 かんのん堂のご本尊は千手観音様で正面の厨子のなかに秘仏として納められています。観音様を納める厨子に残された裏書によれば、元々の観音像や堂宇は幕末の安政七(1860)年に火事で焼失しましたが、当時の住職が奔走し京都南禅寺の天授庵に伝来する千手観音像をゆずり受け、明治十年にかんのん堂も再建されました。その後もたび重なる水害のたびに檀家や地元有志の協力を得てたびたび修理が施され、今日まで信仰を繋いできました。
 

女性たちに
支えられた
かんのん堂

 かんのん堂の左右には西国三十三番札所の観音様がそれぞれまつられており、ここを参れば西国三十三カ所巡礼の功徳もあるとされました。江戸時代はお伊勢参りや金刀毘羅詣でといった巡礼が大流行しましたが、近畿ではとくに西国三十三カ所観音霊場の巡礼が根強く信仰されてきました。しかし江戸時代の人々にとって巡礼旅行は一生に一度できるかどうかのぜいたくであり、巡礼に出ることができない人々は地元の観音堂に参ることで西国巡礼と同じ功徳を求めました。

 安政四(1857)年の銘が残る鉦吾(観音参りをするときに叩く鐘)には男性だけでなく多くの女性が寄進をしたことが刻まれています。また時代ははっきりしませんが「福榮講」という講(グループ)が夫に先立たれ困窮していた女性のために米を寄進したことへの礼状も残されています。かんのん堂がともに支え合おうとする女性たちの場所であったことが窺えます。このように海眼寺かんのん堂は三百年もの長きにわたり、とくに地元の女性たちに支えられて今日まで続いてきました。

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安井安右衛門の
​向拜彫刻

 かんのん堂の正面(向拝)には寺社建築特有の立派な彫刻があります。記録によれば明治21(1888)年にかんのん堂が修理されたこと、この彫物の作者が「安井安右衛門義一」であることが分かります。

 

 福知山史談会の塩見昭吾氏によれば(※1、「相野安右衛門儀一」ないしは「安井安右衛門義一」は、福知山市京町に住んだ彫物師で、幕末から明治中期にかけて活躍しました。宮津、舞鶴、夜久野や、海眼寺近くの法鷲寺(※2)にも彫物が現存しています。

「相野安右衛門」と「安井安右衛門」が同一人物かは議論があるようですが、残された彫物の特徴や銘文からしても、両者が同門であることは間違いないようです。海眼寺の彫物は「安井安右衛門」の作品の中でも後期のもののようです。
 福知山近辺では、三和町の大原神社や奥野部長安寺、寺町久昌寺に精緻な彫物を残した丹波柏原の彫物師・中井氏が有名です。また相野といえば、だんじりの地車彫物で驚異的な作品を残した大坂の相野一門が知られています。「相野安右衛門」もこの大坂の相野一門の流れなのかもしれません。


※1)塩見昭吾「京町の彫物師相野について―相野安右ヱ門義(儀)一」(『史談福智山』第564号・平成11年3月)

同「京町の彫物師相野について(補遺)」『史談福智山』第569号・ 平成11年8月)

(※2)嵐光澂「―塩見昭吾氏発表―京町の彫物師相野についての補遺」(『史談福智山』第667号・平成19年10月)

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