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海眼寺の歴史

 福知山の歴史は、丹波国を平定した明智光秀が城を築き、福智山と名付け城下を成したことに始まりますが、徳川の世となっても城下町作りは絶え間なく続けられました。松平氏が福知山を治めていた慶安年間(1650年ごろ)までには城下の北西の端に寺院を集めた寺町ができたと思われます。
 寺伝では、臨済宗の中本山であった醍醐寺(福知山市猪崎)の第八世・無関禅透禅師によって元和年間(1615年ごろ)に創建さされたと伝えていますが、海眼寺が元々寺町にあったのか、別の場所から移されたのか、海がない丹波でなぜ「海」眼寺なのか等々、創建にまつわる資料は残っておらず詳細はまったく判然としません。
 
 

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観音堂の由来

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女性たちに
支えられた
観音堂

 この観音堂に残された信仰の記録をつぶさに見ていくと、誰もか気づくことがあります。それはあちこちに記された多くの女性たちの名です。この観音堂の歴史がこれら女性たちによって支えられていたという事実は注目すべき点でしょう。

 安政4(1857)年の銘が残る鉦吾(観音参りをするときに叩く鐘)には男性だけでなく多くの女性が寄進をしたと刻まれています。今回の改修工事でも、板の裏や小さな飾りの端々に寄進者として多くの女性たちの名が新たに発見されました。一人で寄進が叶わないときは、多くの女性たちの力を合わせて、またあるいはほんの小さな仏具ひとつでも寄進しよしようとする女性たちの姿が、この観音における信仰の特徴をよく示しています。  
 また観音堂には「福榮講」という講(グループ)が夫に先立たれ困窮していた女性のために米を寄進した記録も残されていて、観音信仰、巡礼信仰を基に支え合おうとする女性たちの場所としてこの観音堂があったことは、信仰の特徴を考えるうえで注目すべきでしょう。
 
 

 海眼寺を入ると正面に観音堂があります。秘仏の観音さまを祀るこのお堂が海眼寺にいつごろもたらされたのか、これもまたはっきりしませんが、海眼寺の創建から百年以上たった江戸中期には「丹波西国三十三ヶ所霊場」として名を連ねていること、石灯籠に寛政9(1797)年と刻まれていることなどから江戸中期には人々の信仰を集める観音堂があったようです。

 安政6(1859)年に観音堂は火事で焼失します。その後、現在の観音堂の建物がいつどのような経緯で建てられたものかは長らく不明のままでしたが、令和6年の改修で発見された記録から、焼失したあと京都南禅寺の塔頭・天授庵に伝来した千手観音像を賜ったこと、明治10(1877)年に観音堂が再建されたことが分かりました。
 

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安井安右衛門の
​向拜彫刻

 観音堂の正面(向拝)には寺社建築特有の立派な彫刻があります。記録によれば明治21(1888)年に「安井安右衛門義一」によって作られたものでであることが分かります。

 

 福知山史談会の塩見昭吾氏によれば(※1、「相野安右衛門儀一」ないしは「安井安右衛門義一」は、福知山市京町に住んだ彫物師で、幕末から明治中期にかけて活躍しました。宮津、舞鶴、夜久野や、海眼寺近くの法鷲寺(※2)にも彫物が現存しています。

「相野安右衛門」と「安井安右衛門」が同一人物かは議論があるようですが、残された彫物の特徴や銘文からしても、両者が同門であることは間違いないようです。海眼寺の彫物は「安井安右衛門」の作品の中でも後期のもののようです。
 福知山近辺では、三和町の大原神社や奥野部長安寺、寺町久昌寺に精緻な彫物を残した丹波柏原の彫物師・中井氏が有名です。また相野といえば、だんじりの地車彫物で驚異的な作品を残した大坂の相野一門が知られています。「相野安右衛門」もこの大坂の相野一門の流れなのかもしれません。


※1)塩見昭吾「京町の彫物師相野について―相野安右ヱ門義(儀)一」(『史談福智山』第564号・平成11年3月)

同「京町の彫物師相野について(補遺)」『史談福智山』第569号・ 平成11年8月)

(※2)嵐光澂「―塩見昭吾氏発表―京町の彫物師相野についての補遺」(『史談福智山』第667号・平成19年10月)

​〒620-0021
京都府福知山市寺町38

0773-22-3247

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